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最終回を迎える前に確認しておきたいこと 『戦国乙女』 2011.06.25
あのRioに匹敵する、あるいはそれ以上の名作かもしれないと評判の戦国乙女でありますが、いよいよ最終回も目前ということで、これまでに描かれてきた「史実」を改めて振り返っておきましょう。


参照1:第一話レビュー記事
明らかに便所が強調される形で始まったこの作品は、随所に便所的なギミックが散りばめられていたわけですが、特に重要だったのは舞台の便所化が行われた第5話だったでしょうか。


参照2:舞台の便所化に関して
ここでは、シンゲン、またミツヒデの存在を通してこの作品の便所的なあり様が提示されました。このあたりから我々は、このアニメを便所なしに考えることは不可能になったでしょう。
また、6話では「水」の大切さが描かれもしましたよね。


参照3:水と便所に関して
こうした中、第8話において、ついにキャラクターの便所化が行われたことは特筆しておかねばなりません。
この回では、湯気と光のスペクタクルアドベンチャーによって、紳士的な視聴者たちの「肉便器」としてのキャラクター描写――昨今では必ずといっていいほど水着を着させられたり温泉に入らせられるアニメキャラの肉便器性――が描かれもしましたが


何より、その後ヒデヨシが風邪をひくという展開によって、「肉便器」という性的なニュアンスを含む概念を遥かに凌駕する、真性の「便器」としてのあり方が明示されました。
そのことは、次の一幕によって理解できます。
まず、熱を出したヒデヨシにノブナガが飲ませたものは何だったか。



「馬糞」のかたまり、すなわち「うんこ」です。常識的な範囲で我々が知る限り、「うんこを飲み込むもの」といえば便所以外にありませんよね。
つまり、ここにきてヒデヨシはついに便所としての身体を獲得したわけです。
また、その「うんこのかたまり」の出所はというと

ノブナガの懐中(胸中?)からでしたよね。
ここでは、ノブナガ自身も「うんこを溜めておく場所=便所(肥溜め)」であったことが分かります。
加えて注目したいのは、ヒデヨシがうんこを飲み込む際に「水」によって流し込むという描写です。

つまりこの一連のシーンでは、「水によってうんこを流すヒデヨシ(現代人)=水洗便所」と「うんこのかたまりをそのまま保存するノブナガ(過去人)=ボットン便所」という対比が行われていたわけです。
時代によって様々に形を変える便所の様式を「キャラ」によって表現する、見事な演出でした。もはやヒデヨシもノブナガも便所の擬人化キャラなのではないかとすら思えてしまいます。
一方、そうした便所的なコミュニケーションから置いてきぼりを食らったミツヒデは、伝説的な神回となった第10話、本能寺回においてその立ち位置を明確なものとします。



伊達先生から受け取った「ひょうたん」の中身をノブナガに飲ませるわけですが、ここでその中身を「酒」であると断言してしまうのは早計です。
なぜならば、この時代において「ひょうたん」とは現代で言うところの「ペットボトル」にあたる携帯用容器であり、現代でペットボトルと言えば「携帯便所」としての有用性も備わっているわけですから、この「ひょうたん」の中におしっこ的な液体が入っていても何ら不思議ではありません。
この、ひょうたんの中身のすり替えは、次のシーンで示唆されています。


ここでミツヒデの脳裏にフラッシュバックするノブナガとヒデヨシの接吻の場面は、接吻という行為そのものではなく、便所的な要因がトリガーになっていると考えられます。
どういうことかというと、8話のあの局面において、ノブナガとヒデヨシは「うんこのかたまり」を通した便所的コミュニケーションを行っていたわけですが、ミツヒデの記憶に刷り込まれたのは「便所的コミュニケーションありきの接吻」であり、それと同じ流れ「便所→接吻」を自身が再現しようとしたことにより、トラウマのような形でフラッシュバックが起こったわけです。
そういった点から、ミツヒデがノブナガに飲ませた「ひょうたんの中身」とは、「うんこのかたまりに相当する何か」ということが実証されます。
そして、これは単なる憶測に過ぎませんが、ミツヒデがヒデヨシに感じていた劣等感とは、自身が便所的身体を獲得できなかった点なのではないでしょうか。5話では便所化された舞台で排泄を行う役回りでしたし、この時点でも未だ「飲ませる側」であり、ヒデヨシやノブナガのような便所的身体を得るには至らなかった。そのことが彼女を追い詰めてしまったと考えると、とても切なくやるせない気持ちになってしまいますよね。
もっとも、このエピソードの最後で彼女は自身のあり様を肯定し、独自のポジションを確立するに至ります。


この人工呼吸のシーン、後にヒデヨシに「私は12回だ」と申告していますが、作中で実際に描写されたのは数回程度であったこと、また、ミツヒデの意識が戻る前にも何度か行われているはずなので正確な回数を数えるのは不可能であろうことを考慮すると、この「12回」というのは人工呼吸=接吻の回数ではなく、意識を取り戻してから「イッた」回数なのではないかと推測できます。そしてその「イッた」回数の報告は、ミツヒデが、ヒデヨシのような「便所」ではなく、「肉便器」としての身体性に特化し、また自分だけがノブナガさまの肉便器になれるのだという宣言のように聞こえます。
恐らく多くの視聴者が、このミツヒデの生き様、紳士を越えた武士としての誇りに胸熱くなったことでしょう。
さて、こうした「本能寺の便」を経て、腹黒かわいいイエヤスちゃんの全力にもお目にかかったところでいよいよラストエピソードを迎えるこの作品、一体どんなケツ末が待っているのか、両目とともに肛門も大きく開いてその時を待ちたく思います。
以上。
ところで、毎年夏と冬に行われる紳士淑女の祭典が間近に迫ってきています。
読者諸兄もそろそろ参加の準備を始める頃ではないでしょうか。
一般参加される方もいればサークル参加される方もいらっしゃるでしょうが、誰もが絶対に見過ごすことの出来ない薄い本がついにこの夏刊行されます。
シンシアニメ(8月13日(土)東地区“Q”ブロック-25b)
様々なアニメ作品を、紳士的な視点で真摯に語る新時代のアニメ批評誌です。
これを読まなければゼロ年代のアニメからは置いて行かれるしテン年代のアニメにも到底追い付けないこと必至です!――というような内容になる予定です。
原稿の締切りが迫ってきております。
かー、実質2時間しか寝てないから(ゲームのやりすぎで)つれーわー。
というわけで、詳しい内容の方はまた後日に告知するとともに、上記ブログサイトの方もコンテンツの充実をはかっていく予定ですので、まあ宜しくお願いします。
(あ、ちなみに寄稿者募集中です。7月10日が締切りなのであまり時間ありませんが、何か主張したいことや論をお持ちの方は挙手してください。)

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便所化する物語――ミツヒデの命題―― 『戦国乙女~桃色パラドックス~』 2011.05.08
さて戦国乙女の話題です。
第5話において描かれたミツヒデさんの「粗相」を振り返ります。

サブタイトルの怪談乙女を快便乙女と空目した人は多いかと存じますが、前回、第4話において初登場し、今回も当然のように現れた武田シンゲンの存在を考えれば、便所(または排泄)にまつわる話が描かれるのはごく自然なことであると言えるでしょう。

――戦国時代、自分の館に6畳間のトイレを作った名将、それは武田信玄。信玄はトイレを「物事を考える場所に適している」と考え、ニオイまで気にしてお香を焚いたり、トイレの傍にお風呂を付けたりしてトイレという空間を大事にしていたのです。その中で長い時には1時間以上戦術を練っていたと言われています。そんな信玄はトイレという大切なプライベート空間を敵に知られないように「山」と呼んでいました。あるとき家臣が「厠をなぜ山と呼ぶのでしょう?」と質問したとき信玄は「山には常に草木(臭き)が絶えぬから」と答えたそうです。/トイレのインフォメーションどっとこむより抜粋――
つまり、便所マニアとして有名な武田シンゲンの存在は、それだけで我々に便所的な何かを想起させるわけです。
したがって、常に草木が絶えぬ場所で行われた百物語の最中に、おやかた様と間違えて――お館とはお屋形であり、便所的な建物が連想されてもおかしくない――ミツヒデが思わず抱きついた相手が武田シンゲンであったというのも



その後の展開(お漏らし=排泄)を考えるとごく自然な光景であったと言えます。
(この時、ミツヒデの右隣りにはヒデヨシが座っていましたが、落ち武者たちに出会う前の森の中を探索するシーンで

ヒデヨシと抱き合っていたことを考えると、いわゆる天丼ネタとしてヒデヨシに再度抱きつく、というのがベターな演出であったはず。にも関わらず、あえてシンゲンに抱きついたというのがもっとも重要なポイントでしょうか。)
もちろん、百物語の最初に腹黒かわいいイエヤスちゃんによって語られた「厠の緒花さん」も重要な伏線になっていたわけですが

この、会場となった場所が川の側であった点や

第4話においてシンゲンとケンシンによる川中島の戦いが描かれたのも偶然とは思えません。



――厠は、数多くある便所の別名の中でも古く、奈良時代から見られます。
712年『古事記』には、水の流れる溝の上に厠が設けられていたことが示されており、川の上に掛け渡した屋の意味から、つまり「川屋」を語源とする説が有力といわれています。
また、現代では住居の中に便所を作るのが一般的だが、少し前までは母屋のそばに設けるのが一般的であったため、厠の語源を「側屋(かわや)」とする説もあるそうです。/トイレのインフォメーションどっとこむより――
あの百物語の会場は、これまでの物語の流れ、また登場人物や立地によって、高度に便所化されていたと見ることができるでしょう。
あらゆる状況がミツヒデの「粗相」を暗示していたわけですね。
(実際には、今回の物語の舞台は「便所化」されていましたから、ミツヒデが行ったのは「粗相」や「お漏らし」ではなく、ちゃんとした便所での排泄であるとも言えるわけですが、ここでは便宜上お漏らしということにしておきます。)



ところで、件のシーンを改めて振り返ってみても、ミツヒデが「ナニを」漏らしたのかは明確には描かれておらず、「大」なのか「小」なのか、またはその両方なのかがよく分かりませんよね。
シュレディンガーのお漏らし理論で言えば、ミツヒデのパンツ(のようなズボンのような何か)の中にはうんことおしっこが5:5で重なり合った状態で存在していたとも考えられますが、実は作中にいくつかヒントと思しきものが散りばめられていました。
それは例えば前述の「厠の緒花さん」の話であったり――緒花=汚花であり、あなるから排泄されるうんこである/参照:便所論壇『あなる→いろは』――あるいは、百物語の途中で発狂したミツヒデを拘束するために

ノブナガさまが発した一言「糞じばれ!」であったり、より直接的な表現としては、ミツヒデのお漏らし発覚直後に、「わたしもー!」と森の奥へ走り去って行ったヒデヨシが

尻を押さえていた点は見逃せないでしょうし、ともすれば、冒頭のタイトル明けすぐにヒデヨシの尻のアップが描かれたのも示唆的に映ります。

また、冒頭の描写と対比(堆肥に非ず)するかのように、ラストにはウサギの尻を食わされるというショッキングなシーンが無修正で描かれもしました。


こうした点を鑑みると、ミツヒデがナニを漏らしたのかが朧げながら見えてくるでしょう。
(もっとも、実はミツヒデが漏らしたのはそもそも排泄物ではなかった、つまり、明らかにマゾ体質であるミツヒデは、百物語の恐怖を「快楽」として認識し、性的なエクスタシーに達した。そしてそれを見たヒデヨシも性的なものを催した――という解釈も決して無視はできませんが。)
さて、上述のように、この第5話においては、武田シンゲン及び「川」の存在による「舞台の便所化」が行われていたわけでありますが、ミツヒデがナニを漏らしたのかといった議論とともにもう一点、排泄という行為によってノブナガたちとの合流が遅れた結果、腹黒タヌキかわいいイエヤスちゃんの「キャラの変化(=本性の露呈)」にヒデヨシが気付いた、という点をクローズアップせねばならないでしょう。



つまり、排泄という行為を通じて物語の歯車が動いたわけです。(ヒデヨシはバカなのでそうそう大きな転換点にはならないかもしれませんが。)
第1話レビューでも言及した通り、やはりこの作品は「便所的」な作品であったのです。
(思えば、第1話では、ヒデヨシは汲み取り式の所謂「ボットン便所」の存在によって「この場所は何かおかしい」と自分の置かれた世界に疑問を持ったわけですが、もしもヒデヨシが召喚された先がノブナガではなくシンゲンの元であったら、ボットン便所ではなく水洗便所が用意されていたはずですから、物語は大きく変わってくるはずで、そういった点からも「便所的」な作品であると言えますよね。)
ちなみに、ちょっとした余談なのですが、妙に印象に残っているカットがありまして

この場面、何ということはないカットでありますが、織田/豊臣と明智/徳川を分裂させるかのように一本の樹木が描かれていて、今後の人間関係の境界線のように見えてしまうのです。
ここまで、桶狭間の戦や川中島の戦などが、どんな大河ドラマよりも史実に忠実に描かれてきており、なおかつ物語的な便所化が進められているこの作品ですから、もしかしたら今まではどこぞの組織によって歪曲/秘匿されてきた真実の本能寺、すなわち、ノブナガとミツヒデが自身のおしっこやうんこによって火消し対決を行う「本能寺の便」が描かれるのもそう遠くはないのかもしれません。
以上。

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