水の音、無形の雫

アニメやゲームのレビュー、日常の様々な事象に関する考察など。C86・3日目東P21a

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時代を反映し続けたFINAL FANTASYと時代に取り残された憐れな男の哀しい物語   2010.02.17


さて今さらではありますが昨年末に発売され大いに話題を呼んだ“FINAL FANTASY XIII”に関するお話です。



FF13.jpg



シナリオだけでなくダンジョンまでもがほぼ全て一本道で構成されていたり、バトルシステムが実質的なタイムアタック制だったり、“街”や“店”というRPGにありがちなギミックをことごとく排除したりと、もはやRPGというジャンルに限らず、そもそも“ゲーム”とは一体何なのかと根本から問いかけられているような余りにもラディカルな作品構造は、発売当初から多くのゲーマーの間で議論の的となりました。

この作品のプレイレビューは大きく二つに分かれます。


・評価する新ユーザー

曰く「戦闘が斬新で面白い」「ストーリーが良い」「CGが綺麗」etc...


・批判する旧ユーザー

曰く「戦闘が斬新すぎてクソ」「ストーリーがスイーツすぎて糞」「CGの作成にかまけすぎてて全体的に糞」etc...



ここで言う“新ユーザー”とは大まかに言ってPS世代、つまりFF7以降のゲーマーであり、“旧ユーザー”は主にFC、SFC世代を指します。
お互いがお互いに軽蔑の念を込めて“ゆとり”“懐古厨”などと言ったりもします。
(もちろん、評価する旧ユーザーもいれば批判する新ユーザーも少なからずいるのは事実ですが)



さて、本項ではこうした批評に一つ一つ突っ込むようなことはしませんし、ましてや自分自身のこの作品に対する評価を述べるようなこともしません。
今からここで語られるのは端的に言えば「FINAL FANTASYとは何なのか」という問題提起についてです。


例えば、このFF13に対するコメントの一つに

「こんなのFFじゃない!」

というものがあります。

これは主に旧ユーザーから発せられる発言で、“7”以降のナンバリングタイトルでよく耳にするステレオタイプな批評ロジックの一つでありますが、では、そもそも“FF”とは一体何ものなのでしょうか。


まずはそうですね、もう少し噛み砕いて「FFらしさ」とは何か、というところに着目してみましょう。

多くの人が思い浮かべるであろうFF独自の要素として“アクティブタイムバトル”というものが挙げられるでしょう。

90年代初頭、コマンド選択によるターン制が主流だったRPGにおいて、リアルタイムな戦闘の流れを再現したこのシステムは一躍FFの代名詞になりました。
初出は“4”だったと記憶していますが、以降の作品では基本的にこの“ATB”が採用されています。

これは確かにFFの特色かもしれません。


続いて、“成長システム”をFFの特色として挙げる人もいるでしょう。

“3”や“5”における“ジョブ”や“7”における“マテリア”など、これまでFFシリーズでは毎回独自の成長システムを生み出してきました。
ここで重要なのは“アビリティ”という概念です。
つまり、キャラクター自身の“レベル”とは別の概念で“職業が成長する”という手法です。

これも極めてFF的と言えるでしょう。



他にも色々言われることはありますが、まずはこの二つが多くの人に指摘されるところですかね。


こうしたゲーム性に関する特色というのは確かに頷けるものはありますが、実は“13”においてもATBは導入されていますし、独自性が強すぎる成長システムもしっかり考案されているんですよね。

今さら「ストーリーが…」「自由度が…」などといった、もはやFFだけでなくRPG全般に対して言えるような要素を持ち出す人はいないでしょうし、ではそうなると何を以って「FFらしさ」と言えばよいのでしょうか。



いや、違いますね。
そもそも「こんなのFFじゃない!」という批評自体が間違っていたのですよ。

断言します。
このFF13は何よりもFFらしく、FF的な作品であると。


そして、ここでようやく「FINAL FANTASYとは何なのか」という問題に切り込んで行くことになります。



過去、ファミリーコンピュータの時代からFFがFFであるためにずっと継承し続けているものはこの“13”でも確かに存在しています。

本項の表題でもある“時代の反映”です。


これこそがFFがFFである所以です。
つまり、FFのナンバリングタイトルは、過去から現在に至るまで常に時代を反映したものになっているのでありす。


例えば、当時全盛を極めたトレンディードラマよろしくラブロマンスをふんだんに盛り込んだ“4”

エヴァブームに引っ張られる形で所謂“オタク”を強烈に意識した“7”

映画“タイタニック”以外の何ものでもないギャルゲー展開で我々を大いに笑わせてくれた“8”

俗に“スイーツ(笑)”と呼ばれる類の失笑もののシナリオで唖然とさせられた“10”及び“10-2”



こうした、時代毎のムーブメントを的確に取り入れ、時代の映し鏡たり得るというコンセプトは過去から現在までずっと健在で、それは“13”においても変わっていないわけです。


ではここで、現代の“時代性”とはどのようなものか考えてみましょう。

一言で言って“コミュニケイション不全”です。

家庭や教育現場におけるコミュニケイション不全については読者諸兄も一度はニュースなどで耳にしたことがあるでしょう。
「先生の言うことを聞かない子どもたち」というのもそうですし、昨今流行りの「モンスターペアレンツ」というものもある種のコミュニケイション不全ですよね。

また、実害の無いレベルではあっても、オンライン文化の発達によって直接的なコミュニケイションが不足しがちになった(必要なくなった)というのは多くの人が実感していることでしょう。

俺が中学生ぐらいの時なんかは、まだ携帯も普及しておらず家電が主流だったので、好きな子に電話かけるのも一大イベントだったものですが、最近の子はみんなメールなんですよね。
(我々の世代はそういうとこで相手の親御さんに対する礼儀なりを学んだものですが…)

と、思い出話はさて置き。


FFに限らず、昔のゲームにはクリエイターとユーザーの間に「問題の提起→自分なりの解答」という、ある種のコミュニケイションが確かに成立していました。

「こんなステージを用意してやったぜ!」

「俺はこうやって攻略してやったぜ!」

というような、抽象的な言葉になりますが“情熱”とか“魂”とか、そういうものが確かに存在していたんですね。

プレイヤーはクリエイターからの“思い”を確かに感じ取り、“攻略”という行為を通じて返信していた。

それこそがゲームにおける“自由度”であり、そこにかける少々歪んだ愛情表現として“縛りプレイ”なるものが生み出されました。


ところが今現在、俗に懐古厨と呼ばれる人たちの言う“最近のゲーム”ではどうか。

ほとんどの作品では、一方的にプログラムに沿った行動をさせられるだけで、クリエイターとプレイヤーの間のコミュニケイションが無くなってきているのです。
コメント欄のないブログを無理矢理読ませられている感じです。

“一本道”と揶揄されるゲームの正体がこれです。


もちろん、今でも自由度(=コミュニケイション)の高い作品は数多く存在しますし、全部が全部一本道などとは言いません。

しかしながら、着実にコミュニケイション不全な作品が幅を利かせてきているのもまた事実です。
そして、そうしたコミュニケイション不全の最先端がこの“FF13”なわけですね。

ほとんどコントローラーを触ることなく一方的に押し付けられるストーリー、ひたすら事務的に前に進むだけの単調なダンジョン、特に何も考える必要のない成長システム。
極めつけはやはり“街”という“コミュニケイションの場”の廃止でしょうか。

あらゆる要素においてただ押し付けられるままに進めなければいけないこの作品は、確かに時代を反映していると言えるでしょう。

何者かに追われるままに敷かれたレールの上をただ真っ直ぐ走り抜ける主人公たちの姿に、独り終電で塾から帰る小学生の姿を重ねずにはいられませんでした。



こうした、時代に対する批評性を以って、俺は全力でこう叫びたい。


この作品は何よりもFFじみている、と。



そして、旧来のユーザー、いわゆる“懐古厨”と呼ばれる人間には、そうしたコミュニケイションの不足が、割と寂しかったり、またつまらなかったりするものであります故に、俺はそっとディスクを取り出し中古ゲームショップに足を向けたのでした。




2500円。




どこの会社の製作かもよく分からないエクシズフォルスなるゲーム(2009/11月発売・PSP)と同じ値段でした。





涼宮ハルヒの感想   2010.02.13

まだまだ寒い季節が続いておりますが皆さまにおかれましては如何お過ごしでしょうか。

まあ、皆さまが如何お過ごしだろうと俺には関係ない話ですが。



およそ二カ月半ぶりの更新となる本日は、先日封切られた劇場アニメ作品“涼宮ハルヒの消失”についてです。
ネタバレは出来るだけ回避するように努力はしますが無意識に垂れ流してしまう可能性が大いにありますのでご注意下さいというかこんなもんネタバレもクソもねぇだろうぐらいのスタンスで。




消失





さてこの“涼宮ハルヒの消失”という劇場映画、俺は公開二日目となる2/7に見に行ったわけでありますが、映画館の混雑を予想し、なんと早朝7時に出発するという、非常に健康的なスケジューリングとなりました。
もちろん寝坊防止のために前夜は一睡もしておりません。
健康的です。


さて、そのような健全な姿勢で挑んだ本作でありますが、一言で言ってもの凄い完成度でした。
二言で言うともの凄い完成度で長門は俺の嫁でした。

まあ、実際問題として“消失長門”にはもはや何の魅力も感じ得ないわけでありますが、そのあたりは置いといて、いや、実はそれも重要な伏線だったりするわけですが、とりあえずはそうですね、まずは簡単にこの“涼宮ハルヒの消失”という作品のアウトラインを述べておきましょう。
(作品の構造上、どうしても“エヴァンゲリオン”や“ビューティフルドリーマー”あたりを引き合いに出して語りたい衝動に駆られたりもしますが、生憎と両作品とも細かい内容を覚えていないのでそのへんは諦めます)


言うなればこの作品は「中二病の男の子が中二病を自覚し受け入れる」という至ってシンプルな物語です。
つまり、これまでは斜に構えて傍観者的なポジションに立って(立ったつもりで)涼宮ハルヒと愉快な面々が織りなす異常事態を俯瞰していた“キョン”こと主人公が、始めて自らの意思でアグレッシブに“非日常”を強く望み行動することになる、そのプロセスを描いています。

ここで重要になってくるのは“日常”及び“非日常”という概念の定義付けです。
この“消失”の世界では、涼宮ハルヒという変態がキョンの前から姿を消し、長門や朝比奈さんは普通の女の子に成り下がり、古泉はガチホモでなくなります。
そこではこれまで、アニメ一期及び二期で描かれたような“非日常”は影を潜め、ごく普通の、平凡な“日常”がどっしりと鎮座します。

しかし、キョンはそこに大きな“喪失”を感じ取ります。
自分にとっての“日常”とは何なのか、“非日常”は本当に非日常なのか、そういった中学二年生の男の子が陥りそうな苦悩に直面するのです。


そして、ストーリーが進むにつれて、我々視聴者の間にも同一の感情が芽生えます。

ハ ル ヒ よ ど こ へ 行 っ た !

なんたることか、“エンドレスエイト”での無限にも思えるループ地獄に「いやもういいよハルヒは」「ハルヒもう飽きた」「ハルヒうぜぇ」などと心を折られかけていた我々は、この“消失”を目の当たりにした時、心の底から“ハルヒによるトンデモ学園生活”を渇望することになるのです。

そう、俺が見たい長門はこんなのじゃない!
俺が見たいのは最強で完璧で貧乳で無口で無表情な長門なんだ!と。

つまり、“非日常”という名の幻想(空想・妄想)を望んでいたのは、他でもない我々視聴者自身であったと。
そして、作中のキョンにとっての“日常”がそうであったように、いつの間にか我々にとっての“日常”も、ハルヒがいて長門がいて朝比奈さんがいて古泉がいるハレ晴れユカイな毎日へとシフトしていたのです。




といったあたりの大まかなアウトラインを踏まえつつ、映画本編の話へと移りましょう。


まず、前述したようなキョン(=視聴者)の心理を巧みに操り物語へと落とし込むテクニックが極めて秀逸でした。

アニメ第一期最終話“サムデイインザレイン”から繋がる物語は、OPテーマを映画オリジナルなどではなくあえて“冒険でしょでしょ”にすることによって、この作品が「涼宮ハルヒの憂鬱」であることを印象付けています。
そして、視聴者はさも当然のごとく“いつもの非日常”が始まるものであると錯覚させられます。
(アニメ一期を“改めて”放映した意図はこのあたりにあるのかもしれないと今なら思えます)

また、病的なほど緻密に描き込まれた背景描写や、異様なほどに画面を埋め尽くすモブキャラたちは、そこに広がる世界に過剰なまでのリアリティを与え、我々を画面の中へと引き込みます。

こうした巧みな印象操作や画面から伝わるリアリズムによって、キョンと視聴者の間にある次元の壁はいとも容易く取り払われるのです。

今この時、俺たちは主人公になったんだと。

そんなどっかの説教魔人みたいな言葉が思い浮かんでしまうぐらいに引き込まれてしまいます。


加えて、この“消失”における一つの特色として、宇宙人、未来人、超能力者といった属性持ちのキャラが消失し、これまでのシリーズでは“一般人”であったキョンが“異世界人”というカテゴリに属することになる、という逆転現象が起こります。

そしてもちろん、この“異世界”というキーワードは、画面の向こうに佇む無数の観客、即ち我々視聴者自身へとフィードバックされます。

つまり、キョンというキャラクターが視聴者の投影であれば、そこに広がる世界もまた、“日常”という名の“異世界”に他なりません。

目の前で繰り広げられる、ファンタジーでもSFでもない“日常”の光景に、キョンは「俺が欲しいのはこんな世界じゃない!」と絶望します。
そして我々は「俺が見たいのはこんな“ハルヒ”じゃない!」と、見事にその心理を重ね合わせてしまうでしょう。

こういったメタフィクショナルな構造はハルヒシリーズの特徴的な部分でありますが、この劇場版“消失”ではキョンの焦り(=視聴者の焦り)が実に秀逸に演出されていました。
(そうであればこそ、ラストで本来の長門(=俺の嫁)を取り戻した時のカタルシスが幾倍にも膨れ上がります)





とまあ、このように、冒頭からすでに作品に飲み込まれざるを得ない状況を作り出されるなど、劇場映画としてというよりは“涼宮ハルヒというソフトウェア”として非常に秀逸な作品ではありますが、しかし、俺はあえて言いたい。


な ん だ こ の 物 足 り な さ は


はっきり言って完璧な出来だと思います。
京アニお得意の作画技術にしてもそうですし、その画面から伝わる情報量の多さや画面構成、また、“間”や“テンポ”を計算され尽くした脚本も然り、BGMによる場面の盛り上げや役者の演技も良かったですし、なんならそこに消えちまったヤマカンの影響力を加えてもいい。

とにかく完璧で、実際上映が終わったあとには殆どの人が満足気な表情で、一緒に見に行っていた友人も完璧だと言っていましたが、なぜ俺はこんなにも物足りなさを感じているのでしょうか。

俺が中二病だからちょっと天の邪鬼なこと言ってかっこつけようとしているだけなのか?

いや、そうではない、そうではないのですよ。

この“涼宮ハルヒの消失”という作品は、それはもう完璧なまでに映像化されています。

そう、完璧すぎたんです。

つまり、俺が見たかったのは「谷川流という作家による“涼宮ハルヒの消失”という小説の映像化作品」ではなくて「京都アニメーションによる“涼宮ハルヒの消失”というアニメ作品」だったんですね。


例えば、当記事でも述べた通り、この作品は「キョン(=視聴者)にとっての“日常”は現実世界にとっての“非日常”である、ということを認識し選択する」という話です。

また、テレビで放映された“笹の葉ラプソディ”や“エンドレスエイト”などが大事な伏線となっており、それらの伏線が一気に回収される様を楽しむ、というのが一つのコンセプトになっています。

あるいは、己にとっての“日常”を渇望しつつも、いつもと違うSOS団の面々、普通の女の子な長門やロングヘアーのハルヒ、ガチホモじゃないただの変態一般人化した古泉などの姿も一つの楽しみでしょう。



ええ、原作読んだから知ってます。



そうなんですよね。
恐らく、今多くの場所で語られている感想(主にシナリオやそこに込められた意図に関して)などは、原作を読めば全て事足りる内容なんですね。

確かに、当記事で語ったような物語への導入や細かい演出、作画面において称賛すべき点は多々あるでしょう。

しかし、あと一歩、そう、あとワンポイント、京アニによる、京アニにしか出来ない独自の解釈が欲しかったと言ってしまっては贅沢に過ぎるのでしょうか。


“ライブアライブ”然り、“朝比奈みくるの冒険”然り、“サムデイインザレイン”然り、“エンドレスエイト”も然り。
京アニというブランド力と、涼宮ハルヒというソフトウェアの力があれば、もっと“遊び”の部分に注力することが出来たのではないか。
エンドレスエイトの企画が通ったんだからもっと無茶なことも出来たのではないか、と。


いやまあ、160分などという非常識な長尺で映画化出来ただけでも十分と言えば十分かもしれませんが、何かこう、余りにも優等生すぎたのではないかと、そう思ったのでした。





まあ何れにせよ、まだ二回見ただけなので、あと三回ぐらい見たらまた新たな発見があるのではないかとは思いますが、“原作ファン”としては100点満点、“ハルヒファン”としては80点ぐらい、といったあたりで今日のところは締めておきたいと思います。

次はもうちょっと短いスパンで、近日中に更新するつもりでいます。
まあ、予定は未定であり決定ではあり得ませんが。

では。ノシ


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