水の音、無形の雫

アニメやゲームのレビュー、日常の様々な事象に関する考察など。C86・3日目東P21a

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スクール水着と体操服の重複着用時に於ける視覚的及び心理的有用性   2010.06.21



すっかり気温も上がって毎日毎日ジメジメした日が続いておりますが読者諸兄はいかがお過ごしでしょうか。

毎年この季節になると湿気も気温もうなぎ登りで上昇し、ついでに我々の不快指数も急上昇しますね。
太陽も湿気ももうちょっと冬にがんばれよ、どうせなら一年通して働けよ、などと思ってもしまいます。

そんな季節ですから、「スクール水着の上に体操服を着用した場合」の破壊力について考えてしまっても何ら不思議ではありませんよね。




まずはある時に行われた俺とA氏の会話を抜粋します。
事の発端は俺が「スポーティーな女性がスク水の上に体操服を着ているエクササイズ動画を見て凄い良いと思った」と発言したことによります。


・A氏の発言

スク水は上半身にもロマンがたくさんなんですよ。
あなたの好きな腋の鑑賞も可だし、貧乳も巨乳も映える
あのピチピチ具合。そして濡れる事で更なる美を味わえる。
ちょっと肩紐がずれて日焼け後が見えるなんてイベントも。
あとは、あの突起が見えるときなんてもうタマランじゃないですか。

なのにあなたときたら、上に体操服?
スク水はそれ一品で高度なバランスで成り立っているのにワザワザ余計な物を足すなど愚の骨頂。
上記のロマンを悉く潰すなんて…俺は悲しいですよ。

そもそも、体操着を上に着たら、ブルマ型のスパッツを履いてるのと変わらないじゃないですか。
スパッツはあの野暮ったいデザインだからこそピチピチ具合が
引き立つというのに。
パンツ型にするならブルマでいいじゃないか。
むしろ、ブルマがいい。しかも黒か紺に限る。




・俺の発言

確かに、スク水+白ゼッケンの破壊力や恐ろしいものがあるし、腋や乳の鑑賞も幸福の可能性を秘めている。
そんなことは百も承知である。
だがしかし、君は考えたことがあるだろうか?
「見えない美学」というものを。

それ単体で相当な攻撃力を誇るスク水を

あえて隠す

しかも上半身だけ

これを見た紳士諸君はこう思うだろう。

「なぜだ!?なぜそのようなもったいないことを!?俺のロマンを返せ!」

しかし、それこそが俺の求める美学である。
本来なら見えるはずのものが見えないことによる渇望。
着衣によって隠された中に潜む無限の可能性への欲求。
そして膨らみ続ける妄想。
しかもだ、よりによって着ているモノが、これも単体でも破壊力抜群の体操服ときたもんだ。
そんな、ある種メルトダウン寸前の状態にあってだ、もしも、もしもその体操服が

濡れて透けていたとしたら?

言わせんな恥ずかしい。




さて、これらのアレな経過を踏まえた上で、スク水と体操服の相乗効果に関する考察に入りましょう。


まず、我々はそもそもスク水に何を求めているのでしょうか?

それは、例えば水着そのものの造形美であったり、ムチムチパツパツした密着感であったり、旧型に見られる“水抜き”やスカートのヒラヒラなどの“構造的なエロス”であったりなどなど、様々な要素が挙げられるでしょう。

しかしながら、最も重要かつ、スク水の本質となるのは「水着でありながら露出が少ない」という要素ではないでしょうか。


なぜ露出が少ない方が良いのでしょう。

つまるところ、それこそが俺の提唱する「見えない美学」、ひいては「妄想の可能性」に繋がってくるのです。

スク水の布地面積が、ビキニやTバックのそれと比べ、かなりの広範囲に渡っていることは読者諸兄もご存知のことでしょう。
これは逆に言えば、我々自身が「自由に想像できる領域」が大きく割り振られているということになります。

例えば“着エロ”という概念なんかもそうですが、平たく言えば、隠されれば隠されるほど、我々はそこに“想像力”というエネルギーを注ぎこみ、そのエネルギーの分だけパラダイスへと近づくことができるのであります。

そして、そのことはスク水という概念の本質に直結しています。
即ち、スク水の本質とは「隠す」ことなのですね。



また、スク水には特筆すべき点がもう一つあります。

大事な部分は一切露出しない、つまり「隠して」いるその一方で、腋や太股といったフェティシズム溢れるポイントについては余すところなく露出しているという点です。

そう、実はこのことが非常に重要なのです。
一見すると、隠すほどに自由度の増す「想像の領域」という概念とは矛盾しているように思えるでしょう。
しかし、考えてみて下さい。
我々が最も神経を削って想像しなければならないのはどの部分なのかを。

お分かりでしょうか。
そう、その最重要チェックポイントへ辿りつくための手掛かりとなるのが、太股であり、腋であり、二の腕なのであります。
つまり、スク水に於ける露出部分とは、我々が約束の地へと辿りつくヒントとなっているのです。

そして、この「隠すポイント」「見せるポイント」が神懸かり的なバランスで拮抗しているアイテムがスクール水着なのですね。




さて、ここまででスク水の本質的な部分については御理解頂けたでしょう。
要点をまとめると

・スク水の本質は「隠すこと」にある

・自由に想像出来る領域と、その想像を促進し、補足する適度な露出のバランスがスク水の要である



では、ここまでの記述を踏まえた上でいよいよ本題である『体操服との相乗効果』についての考察に入ります。


言ってしまえば、本来なら単純に萌えへと繋がりそうな体操服という要素ですら、スク水の上から着用することによって絶望感を演出する暴力装置となりうる、ということであります。

つまり、想像を促し、それにより我々を未知の領域へと誘ってくれるスクール水着を、その絶対的な防御壁によって隠してしまう。
そこから生まれるものは「絶望感」以外の何ものでもありません。


しかし、それこそが俺の求めるモノなんですね。

順を追って解説します。
まず、ここまでの記述の中で、スク水に於ける「想像の領域」と「ヒントとなる露出部分」についてはもう十分理解して頂けたと思います。
そして、体操服というものはその内の後者、ヒントとなる露出部分を包み隠してしまいます。

つまり、我々の想像を促進させるヒントとなり得る“露出”が極端に減らされる、隠されてしまうのです。
しかし、そう、逆に言えば「想像する余地が増える」ということにもなります。

これが非常に重要かつ難解な事項で、想像する余地が増えるということは、その分、我々の想像力がどれほどのものかが試されるということになってくるわけですね。

前述の通り、スク水というものは非常に高度なバランスの元に成り立っているわけでありますが、そのバランスを敢えて崩し、守りを固める。
ゴール前のバイタルエリアに鉄壁の防御ラインを築くのです。
そして、そうした防衛線を越えた先には、最早並大抵の想像力では辿り着けないパラダイスが広がっているのは明白でありましょう。

引いて守りを固めた相手に対抗するには、何よりも柔軟な思考とアイデアが必要になります。
つまり、体操服という防御壁の存在によって、我々はスク水単体の時よりも遥かにレベルの高い想像力が必要になってくるのです。

分かり易く具体的に言うと、仮に体操服の「向こう側」を見通すことが出来る透視能力を持っていたとしましょう。
しかし、体操服を透視したその下には、まだ「スク水という最終ライン」が残っているのです。

つまり、体操服を突破してもまだ壁がある

この状態こそが我々紳士にとって一つの喜びであり、また、我々の「可能性」を広げてくれる最高のツールなのであります。
想像力の鍛錬と下半身の鍛錬を同時に行えるのですよ!



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続いて、ここまでの考察の補足/付録として、「透ける体操服」という概念についてお話ししておきます。

まず、「透ける」という事態に於ける効用として「本来見えるはずの無いものが見える」というものが挙げられます。
これは本来「想像の領域」の拡大を目指す我々にとっては忌避すべき事柄でしょう。
なぜなら、透けて見えることによって想像の余地を奪われてしまうからです。

しかし、俺はここで問いかけたい。


そもそも何故想像するのか?


何故人は「その先」を想像するのか。
これは一重に、人間心理の奥底に「見たい」という欲求が眠っているからであると推測します。

つまり、ここまで色々と言ってはきましたが、要するに「見たい」のです。
この「見たい」という欲求が想像力の源となり、我々に妄想という名のビジョンを見せるのですね。


しかし、非常に厄介なことに、我々の中には「見たくない」という真逆の欲求も存在しています。
これは、「見てしまうと全てが終わる」という恐怖心に基づくものであると推測されます。

もしも「向こう側」にあるものが自分の思っていたのとは違うものだったら?

もしもそれを見たことで自分の中の何かが大きく変わってしまったら?

こうした、表には出なくとも心の奥底に潜む恐怖心が「見たくない」という欲求を加速させるのではないでしょうか。

まとめると、「見たい」というある種本能的な欲求と、「見たくない」という心理的な欲求、二つの相反する欲求が人間の中には眠っているのです。



では、上記を踏まえた上で、本題である「透ける体操服」の話へと戻ります。

簡単な話です。
要するに、体操服が透けることにより、前者の「見たい」と欲求が満たされる。
しかしそれだけだと、今度は「見たくない」という欲求が無視されることになる。
そこで登場するのがそう、スクール水着です。
もしも、透けた服の向こうにスクール水着というディフェンスが陣取っていたらどうでしょうか?
そう、我々が心の底で抱えている「見たくない」という欲求を満たしてくれるのです。

つまり、「見たい」という欲求と「見たくない」という欲求、この正対する二つの欲求を同時に満たしてくれる二重防御壁、それがスク水+体操服の正体なのです。


もっと単純に図式化します。

・体操服が水に濡れて透けている=嬉しい

・その奥にスクール水着が鎮座している=まだ想像の余地が残っている=超嬉しい



それぞれ単品の時に比べ二倍の喜びを感じることが出来るのですよ!





と、思わず文字のサイズを特大にしてしまうほど興奮してきてしまったわけですが、このあたりで俺の言いたかったことは何となく分かっていただけたと思います。

いや、むしろ書けば書くほど意味不明になっていくというか、これ以上余計なことを書き連ねると本当に何が言いたいのか分からなくなってくるので、ここいらで筆を置かせていただきます。

あ、そうそう、この文書、「体操服」というアイテムが殊更強調されておりますが、これは要は「スク水の上に何かを羽織る」ということが重要なので、皆さんのお好きなお召し物に代用してもらって構いません。
(例えば7月から二期が始まるストライプパンティーズストライクウィッチーズなんかはスク水(にしか見えないズボン)の上に制服を着用していたりしますよね)


と、いったあたりで。
ではっ。


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けいおん!!は日常系ではなかったらしい   2010.06.12



前回の記事では「日常系エロゲ」というものについて考察しました。
今回はその記事に対する補足、注釈的な内容になります。

日常系エロゲは成立するのか


さて前回、“日常系”の定義として以下のような要素を抽出しました。

・男が絡まない=恋愛/エロ要素の排除

・主人公を明確化しない

・物語性がない(物語に連続性がない)

・キャラが成長しない

・舞台が限定されている


そして、こうした要素を抜き出すためのサンプルの一つとして“けいおん!”をチョイスしていたわけでありますが、ここに一つの誤りがありました。

というのも、このけいおんという作品は、原作やアニメ一期はともかく、現在放映されているアニメ二期に関して、「もしかしたら“日常系”じゃないかもしれない」という疑惑が発生したのです。


一般的に「日常系アニメ」と呼ばれるけいおん!!ですが、例えば「舞台の閉鎖性」であったり、「恋愛/エロの排除」という部分に関しては“日常系”のフォーマットに沿っていると言えるでしょう。

しかしその一方で、特に第7話以降、これまで“現在”に主軸が置かれ、あくまで「今ある日常」を描くだけだったこの作品で、「OBの女子大生」や「今後の進路」といった“未来”が描かれたり、あるいは回想シーンによる“過去”の掘り下げが行われるようになりました。

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また、さわちゃん先生の同僚や近所のお婆ちゃんなど“大人”が多く描かれるようにもなりましたし、一期の頃に比べてクラスメイト、「個性を持ったモブキャラ」が大量に投入されてもいます。

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つまり、一期の頃は「軽音部+数人の関係者」という、ほぼ密室で“点”として描かれていたこの作品に、新たに“時間”という縦軸と“社会”という横軸で二本の“線”が描かれるようになったのです。

そしてそのことは、けいおん!!という作品に「物語性」が付与される要因となり得るわけです。


それが証拠に、例えば第7話から第9話にかけて、「女子大生となったOBの姿→今後の進路(唯の未来予想)→進路にも関わってくる試験」というように、なんたることか、一話完結だと思われていた(思い込んでいた)この作品に“伏線”という要素が加えられ、「物語の連続性」が生まれてしまっているではありませんか。

あるいは、一期や原作に比べ明らかに頻度が上がっている“過去の回想”に関しても、同様に「キャラクターの成長」という「物語」が発生しています。

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また、ユイアズという公式カップリング、つまり「百合恋愛(に成り得る素材)」が提示された点も見逃すことは出来ないでしょう。

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ここまで「物語性」が出てきてしまった作品を「日常系」と呼ぶには少し違和感を感じてしまいますよね。

もちろん、じゃあ「非日常系」と呼べばいいのか、などという簡単な話ではありませんし、そもそも「日常系」という言葉自体が定義も曖昧で人によって千差万別な言葉ですから、「これは~が~だから~なんだよ!」とキバヤシ先生のように一概に述べることなど出来ないのは分かりきっています。

しかしながら、一方で、いくつかの「日常系と呼ばれる作品」を並べた上で朧気に見えてくるフォーマットとこの作品を照らし合わせた時に、どうしても他の作品とはズレて見えてきます。

そしてその微妙な“ズレ”からは、京アニによる「脱・日常系」というコンセプト、あるいはアニメ一期、及び原作までも含んだ「アンチ・けいおん!」という自己批評のような意図を感じざるを得ません。

二期第1話において、(俺の)あずにゃんにブタの着ぐるみを着せては所謂「けいおん豚」を揶揄したり、あろうことか唯に「ブヒ!ブヒ!」と鳴かせるなどしては「ブヒ」と「部費」との押韻により「けいおん豚からの部費(=金銭)の回収」という搾取の構造を明言していたりもしたわけですから、京アニの自虐的なまでの批評精神は推して知るべきなのでありましょう。
京アニさんマジカッケーっす。


もはや、第1話を見た時には「ああ、一期とほぼ同じか」と思っていた“二期”が、全くの別物であるようにすら思ってしまいます。
いや、実際意図的に別物にしているのでしょう。
何にせよ、今後どういった「物語」が見えてくるのか、あるいは見えてこないのか。
興味深く視聴を続けたく思います。
個人的には唯がおしっこを我慢したりあずにゃんが肩車状態でおしっこを漏らす話を待ち構えております。



と、いったあたりで、今回は短めに。
まあ、ジャンル論など本来はどうでもよい話で、べつにけいおんが日常系だろうが上条系だろうが何だっていいんですが、とりあえずは前回の記事への補記として、また個人的な頭のエクササイズとして筆を取らせて頂きました。

ではでは、にわかサッカーファンの俺はアルゼンチン-ナイジェリア戦を絶対に見逃せないので失礼します。










日常系エロゲは成立するのか   2010.06.06

テーマ:エロゲ - ジャンル:ゲーム Tag [日常系]


さて本日は表題の通り、「日常系エロゲ」というものが果たして成立し得るのか否か、というお話です。

昨今、漫画やラノベ、とりわけオタク向け深夜アニメにおいて“日常系”という言葉をよく耳にします。
一昔、エヴァの影響でしょうか、“セカイ系”という言葉が流行った時には、エロゲにおいてもそうした世界観/物語の作品が多く生み出されました。
そして今、世は空前の日常系ブーム。
今こそ「日常系エロゲ」を考える時期ではないかと、そう思うのです。

では、まずはこの日常系という言葉の定義を知るためにググレカス教授を訪ねてみましょう。



-変態検索中-



はい、よく分からないということが分かりましたね。
続いて、「他のキーワード」としてググレカス先生に勧められた「日常系アニメ」についても調べてみましょう。



-変態検索中-



さて、定義が曖昧すぎて何かよく分からないということが分かったところで、独断と偏見によって定義付けを行っていきましょう。
(定義が曖昧ということは即ち好き勝手語ってもオッケーなジャンルだと強引に解釈)

まずは多くの場所で「日常系アニメ/漫画」として語られる作品を列挙します。


・あずまんが大王

・苺ましまろ

・らき☆すた

・ひだまりスケッチ

・けいおん!


この5作品ぐらいでいいでしょう。
(個人的には“ひだまり”と“けいおん”意外は微妙な感じですが)

続いて、これらのサンプルに共通する要素を抽出します。
これが当ブログにおける「日常系」の定義となります。
(当然のことながら“例外”は存在します)


・基本的に男は絡まない=恋愛要素の排除

女の子4人組+αというテンプレが(なぜか)好んで使用されているようです。
モブキャラなど、一部の例外を除いて男はほとんど出てきません。
そしてそのことは、“恋愛要素”の排除へと至ります。


・“サービス”以上のエロがない

水着回や温泉回が挿入されることはまあお約束としても、それ以上のエロス、例えば男に肩車された状態でJCがおしっこを漏らしたり、童貞の前でJKがエロ妄想したりといった“下ネタ”は忌避される傾向があります。
これは上述の“恋愛要素の排除”とも繋がっており、つまるところ“性”を意識させる描写が省かれるわけですね。


・明確な主人公がいない

話の中心となる人物は存在しても、一般的に“主人公”と呼ばれるべき存在が欠如しています。
もちろん、ゆのを“ひだまり”の主人公としたり、唯を“けいおん”の主人公としたり、宮子やあずにゃんを俺の嫁とすることは解釈の仕方によっては可能でしょうが、そもそも“日常系”の魅力の一つは「男子禁制の女の子空間を覗き見する」ような、ある種背徳的な感覚にあり、「主人公=視聴者の投影」が存在しない、というのは日常系にとって最も必然性の高い作品構造となります。


・“物語”がなく“関係性”のみが存在する

物語がない、というよりは「物語に連続性がない」とした方がより正確でしょう。
日常系と呼ばれる作品は基本的に一話完結というスタイルが選ばれます。
重要なのはどこを切り取っても同じ金太郎飴のような構造であり、そうした構造によって、一話二話見逃したとしても次に出会う時にはまた以前と同じ世界が待っていてくれる、という「安定感/安心感」に繋がります。
逆に、物語がない代わりにキャラクター同士の「関係性」が継続性をもって描かれます。
幼なじみ、親友、部活、クラスメイト、これらキャラクター同士の関係性が半ば永続的に続いていき、基本的に「人間関係の変化」というものが描かれないあたりが、より一層「物語性」を希薄にします。


・キャラが成長しない

俗に“サザエさん方式”と呼ばれる手法で、キャラが年を取らず、学年も常に一定に保たれる、という形式が多くの作品で取り入れられています。
また、年齢だけでなく、多くの場合「人間性が変化しない」という意味での“未成長”が選択されます。
つまり、価値観や性格の変化(=物語)が排除されるのです。
これは前項と同じく、常に一定の世界が保たれることに意義があります。


・舞台が限定されている

街単位や学校単位での限定空間は様々なジャンル/作品で見受けられますが、ここではより尺度の小さい範囲、つまり教室、部室、自宅、といった空間を指します。
もちろん、キャクター達は時には街へ繰り出し、合宿や旅行へも出掛けますが、基本的にはある一定の、ほぼ密室と言っても過言ではない極小範囲内での活動になります。







というわけで、ようやく本題である「日常系エロゲ」の可能性への言及へと至ります。
上記で挙げたようなおおよその定義を元に、日常系エロゲというものが成立し得るのか否か、また、成立するとしたらどのようなものになるのか、そのあたりを探ってみましょう。
(現状でも一応「日常系エロゲ」と呼ばれている作品は存在しますが、それらはあくまで「魔法や超科学、神仏などの存在しない、現代社会が舞台となった作品」という程度のものであり、アニメや漫画で言われる“日常系”とは若干意味が異なります)


この検証は上記で挙げた“定義”をエロゲへと落とし込んでいくことで為されます。

例えば「物語」の排除と「関係性」の継続。
これは比較的容易に可能となるでしょう。
というか、エロゲではありませんが「ラブプラス」なんかはまさにギャルゲーから物語を排除して関係性のみを追求した結果ですよね。
何年か前に「こいびとどうしですることぜんぶ」という斬新な作品がありましたが、ひたすら女の子とイチャイチャするだけ、というシステム自体は既にいくつかの作品で取り入れられています。
同様に「キャラが成長しない」というシステムも可能でしょう。
というか「物語」を捨て去り関係性の継続を選択する時点で半ば必然となるでしょう。

さらに「舞台の限定」これも既に多くの作品で取り入れられていますね。
監禁陵辱モノとか←
エレベーターパニックという作品があって

続いて、「主人公の欠如」でありますが、これも問題はないでしょう。
そもそも「物語」がなければ主人公も必要ありません。
また、多くのエロゲープレイヤーは自分を主人公に置き換えて画面の中の美少女との恋愛を楽しむ、という趣向を良しとしている反面、昨今では(というかもうだいぶ以前からですが)、例えばAIRや車輪の国、クロスチャンネルといった作品のように、いわゆる“シナリオ重視”、即ち恋愛のシミュレーションではなく“読み物”として作品を楽しむ、「第三者の視点による俯瞰」が出来る土壌が整っています。
ですので、主人公不在(=プレイヤー置いてけぼり)でキャラ同士がイチャイチャしてるだけでも十分に需要は開拓できるでしょう。
むしろ、先にも挙げた通り、女の子たちのイチャイチャを「覗き見」するが如き感覚こそが日常系にとって重要な要素となります。


さて、ここまでは割とすんなりいきました。
ここからが少し難しい話になってきます。

まず「男キャラの排除」というどうしようもない“縛り”が発生します。
(あ、もちろんここでいう“縛り”とは作品を企画する上での“制約”のことであって、俺が普段から望んでいるような物理的な拘束という意味ではありませんよ!)

男を絡めることが出来ない以上、日常系エロゲとはつまり「百合モノ」に限定されることになります。
百合がNGという人には無条件で退席していただくことになってしまいます。
(まあ、昨今ではあまり問題ないような気もしますが)


それよりもさらに問題となってくるのが、“日常系”における最大の難所、つまり「恋愛要素/エロ要素の排除」です。
恋愛はともかくとしても、エロの排除をしてしまうともはやエロゲでなくなってしまうので、ここで大きな二律背反にぶち当たってしまいます。
ここの処理をどうするのか、というのが実は最大の問題なのです。

まずエロは後回しにして「恋愛」という要素について考えてみます。
例えば上で挙げたような日常系アニメ/漫画においては、男キャラが排除されているがゆえに必然的に恋愛要素がなくなっており、また、恋愛要素をなくすために男キャラを排除した、という見方もできます。

そして、「恋愛」という要素が入ってくると、そこには「ドラマ=物語」が生まれてしまう、という解釈が可能となり、そのことが“日常系”において恋愛要素が排除される所以なのだと考えます。

つまり、我々にとって「恋愛」とは“非日常的なドラマ”であると、意識的にか無意識的にかそういう思想が定着しているわけですね。

ところがその一方で、「男×女」という恋愛ドラマが忌避されている割に、「百合」によるカップリングは普通に受け入れられています。
異性愛はダメでも同性愛はオッケーという謎の不文律が成立しているのです。
これは恐らく「百合」であればキャラの“処女性”は保たれるとか、そういう処女厨的な発想だと思われますが、これは逆に「日常系エロゲ」を考える上での突破口になるのではないでしょうか。

つまるところ、日常系において「男=恋愛要素」が省かれるのは、“性”による人間性の変化、即ち「日常の変化」に対する恐れからきているものであると解釈します。
逆に言えば、日常に変化(物語)をもたらさないための最も安易な方法として恋愛要素の排除が行われているのではないかと、そう考えられるのではないでしょうか。

ですから、“物語”が発生しないレベルで、安定的な日常が描けるようなバランスであれば、恋愛要素自体は挿入されても大丈夫である、と結論付けることが可能となります。

そして、そこに付随するであろう「エロ」に関しても同様に、キャラクターの“処女性”を保ったままで、且つ、日常的に不自然でないレベルであれば描写することも可能となるでしょう。


と、いったあたりで何となく纏まってきたのではないでしょうか。

ここまでに挙げた“日常系”の定義と、エロゲーへの落し込み作業をまとめて、「日常系エロゲ」とはどのような作品になるのか発表します。



・4人組の女の子が教室で、部室で、イチャイチャペロペロするのをただ黙って眺める盗撮ゲーム。







これ面白いか?






というわけで、日常系エロゲ、成立は出来てもどう考えても人気は出ない、という結論に至ったところで、京アニの次回作『日常』のリリースを待ちながら、この日常系ブログの更新を終えたいと思います。










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