水の音、無形の雫

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2012年秋期新作アニメレビュー(2) 『さくら荘のペットな彼女』   2012.10.17


今期一番の問題作となるのかもしれません。
『さくら荘のペットな彼女』についてです。

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第一話、物語のド頭で「主人公が目覚める→パンツ」が描かれた作品といえば、往年の名作『迷い猫オーバーラン!』を思い出さずにはいられませんが

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パンツとともに繰り返し描かれる「猫」においては

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やはり不朽の名作『迷い猫オーバーラン!』が思い出されるでしょう。

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その『迷い猫オーバーラン!』という作品は、冒頭で盛大にパンツを見せた文乃が、後から参入してきた希に結果的には敗北するというかたちのエンディングを迎えました。
すなわち、オナじ「擬似家族モノ」であるとも言える『さくら荘』においても、ファーストパンツの美咲先輩ではなく、新参者のましろの物語になることが伺えます。
まあ、そのあたりのことはキービジュアルやあらすじを読んだだけでも分かりそうなものですが(そもそも美咲先輩とはバトルにすらならないみたいですしね)、そうした確定事項をパンツによって表現するという作法に一定の評価を与えたいということです。

さて、この『さくら荘』という作品で指摘しておかねばらないのは、たとえば岡田麿里特有のシャセイ表現であったり

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その伏線となるシャセイ表現であったり

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そういったことではなく、ヒロイン・ましろの「」にこそ目を向けるべきなのですが、そこには「自分じゃパンツもはけない」というキャッチコピー以上の大きな問題提起が込められています。

第一話の後半、「自分じゃパンツもはけない」とはどういうものかが具体的に示されたシーンでは、実際にはそれは「自分じゃパンツも選べない」ということなのだと分かります。

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パンツをはくためにはまず最初に「選ぶ」という動作をしなければならない。「選べない=はけない」であると。
普段われわれはパンツをはく際に、意識的であれ無意識的であれ、自然と「パンツを選ぶ」という行為を行なっています。これは普通に生活していれば誰もが経験することです。したがって、「自分じゃパンツも選べない」少女は、およそまともな人間であるとは言い難い、社会常識のない異常な人間であると言えます。
もっとも、そう断じるための「前提」というのはとても不安定なものです。ましろを異常な者だと断言するための前提とは、「われわれは自分の意思でパンツを選んでいる/はいている」というものです。しかし、例えばあなたが今はいているパンツを、あなたが自分の意思で選んだものだと断定することが出来るでしょうか。その意思とは、あなたが本当に望んでいたものだと断言出来るでしょうか。
もしかしたら、「パンツの方こそが選んでいる」ことだってあり得るわけです。われわれがパンツを選ぶのではなく、パンツがわれわれを選び、はかせている。そのことを否定するための正当なロジックはこの世界に存在しません。

とは言え、そうしたパンツ主体の考え方にしても、残念ながらましろの人間性を擁護するための材料にはなりえません。なぜなら、過程はどうあれ「パンツの有無」自体が社会性の判断に関わってくるからです。
つまり、パンツをはいていない人間はまともではないと判断される世の中においては、「自分じゃパンツも選べない/はけない=まともな人間ではない」と同様に、やはり「パンツに選ばれなかった/はけなかった=まともな人間ではない」が成立します。人間主体であれ、パンツ主体であれ、たった一枚の布切れによってその人間性が左右される理不尽さは変わらないのですね。
ただし、後者の考え方、すなわち「パンツに選ばれなかった」者には、前者に比べて悲哀が漂います。同情の念とは、時に「萌え」に繋がることは留意しておいてもよいでしょう。

さて、椎名ましろとは、パンツに選ばれなかった少女です。
逆に、先ほど挙げた冒頭のシーン、パンツに選ばれた存在である美咲先輩は、エキセントリックな言動とは裏腹に、至極まともで常識的な人間であると言えるわけです。キ◯ガイじみたキャラが実はまともな常識を持ったちゃんとした人であるというのは定番でありますが、それを「パンツに選ばれた者」という表現の仕方であらわすのは、今まであまりなかったことのように思います。斬新というよりは、「自分じゃパンツもはけない」というコピーが大きくクローズアップされて前面に押し出された作品ですので、パンツによる常識の有無の判別がより際立っているということです。
そうした中で、パンツに選ばれなかったましろは、第二話においてその非常識ぶりを顕にします。

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買い食いならぬ「買わず食い」のシーン。
ここでは、ましろが「物資を手に入れるための最低限のルール」を知らない人間であることが謳われています。物資やサービスに対して対価を支払うのは、人間社会のもっとも古い「常識」であると言えるでしょう。ましろはその常識を知らなかったわけです。

ところが、そうした「介護が必要なレベル」で非常識な存在であるましろですが、ある一点に関してはきわめて常識的な思考を有しています。(思考というよりは知識といったほうがよいでしょうか。)

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マンガ表現に関してです。漫画家として活動しているましろは、編集者から「過激な描写に挑戦してはどうか」と言われ、そのために空太をモデルとして観察しようとします。
ここで、ましろが「過激な描写」がナニを指すのかを理解していることが分かります。買い物という社会ルールは知らなくても「過激な描写」の意味するところは理解しているのです。
さらには、「抱いて」という意味深な発言の後、ついには「セックスしたことある?」という具体的な言葉まで飛び出します。

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これは一体どういうことなのでしょうか。
ここまで、徹底的に非常識な存在として君臨してきたましろが、なぜ性の知識に関しては一般レベルの理解をしているのか不可解に思えます。そこのところを解体すると、この作品に秘められた大きな批評性が見えてきます。

繰り返しますが、椎名ましろという人間は「社会のルール」にきわめて疎い要介護者です。しかし一方で、芸術家として脚光を浴びていることが第二話のラストで判明します。芸術家には変態が多いとか、サヴァン症候群がどうこうとか、そういう話ではありません。
社会常識はなくとも、「芸術」という分野においては技法や「知識」などを高いレベルで習得しているのではないか、ということです。
つまり、漫画家でもある彼女は、「漫画の世界」におけるルールには精通していると考えられます。より詳しくは「漫画の世界の中での人間社会のルール」です。

今ここで漫画批評を行うつもりはありませんし、これは「漫画」だけに限らずアニメやラノベやエロゲなんかにも言えることなのですが、マンガ的な世界の中では、人間社会が克明に描かれることがあまりありません。例えばよく言われるのは、学園ものにおける登場人物(学生主人公など)の収入源や生活環境の問題。「両親が海外に長期出張」などというのは同居ハーレムものでありがちな設定としてネタにもされますが、マンガ世界の中では「生活感」というものが薄れがちです。「マンガにはコンビニで買い物するシーンがない」とまでは言いませんが、通常重きを置くシーンはもっと別のところにあるはずで、当然のことながら「コンビニでの買い物」のプロセスを克明に描くことを主体にしたマンガ作品になどそうそう出会えるものではありません。

つまり、ましろは「マンガの世界」の常識は知っていても、その中には実際の「人間社会の常識」が含まれていない。だからコンビニでものを買うという発想がないわけです。(先ほどの話に戻ると、マンガの中で「パンツを選んで/はく」という行為が詳細に語られることもほとんどないわけですから、「自分じゃパンツも選べない/はけない」に繋がってきます。)
逆に言えば、このことは「マンガでは人間社会の常識が描ききれない」ということにもなります。
このあたりのマンガ世界に対する態度が、この作品に批評性を与えています。
それは多くの「ヒロイン象」にも言えます。最近では、エキセントリックな言動をする者や常識はずれな行動を取るヒロイン、すなわち極端なかたちでディフォルメ化されたキャラクターたちを、そのまま「萌え要素」として見るのではなく、「マジキチ」「障害者」といったメタな視点で見る向きもあります。これは、もういい加減いわゆる「天然」系のヒロインが飽きられてきたからであるというのが一因として考えられますが、そうした天然ヒロインに対して「介護」という言葉が使われたのはとても批判的に映ります。

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古くから受け継がれてきた様式美であると言える天然系/キチ◯イ系ヒロインへの「介護」という発言は、この作品がご都合主義的でありきたりな同居ハーレムアニメの皮を被った、その実きわめて攻撃的なアニメであることをあらわしています。危険ですよこのアニメは。

さて、この作品が思いもよらない怖いアニメであることが分かったところで、くだらない話はやめにしてさっそく本題に入りましょう。
まず一つは、ましろが「マンガの世界」での常識しか理解していないという前提での、先ほど挙げた「セックス」のシーン。

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「自分じゃパンツもはけない」少女は、セックスの知識があります。またここまでの議論によって、彼女はマンガから「常識」を学んでいることがわかります。
ゆえに、ましろはエロマンガを読んでいると言えます。
当然のことながら「はじめての男子」の意図するところも理解しているでしょうし

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そうするとこの発言は故意犯的な意思に基づくもの、つまりましろは物凄く腹黒い女である可能性も浮上しますし、そうでなくとも、エロマンガからオナニーの知識を習得しているので「はじめての(オカズに使った)男子」であるとも考えられます。
興奮してきました。

続いて、またもやセックスシーンの話になりますが、ここで空太の股間に起きた出来事を見逃すわけにはいきません。

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腕の角度が手コキしてるようにしか見えないのはさて置き、この場面というのは、ましろがマンガの資料として空太の半裸体を観察する場面です。観察し、それを描写せんとするわけです。
対象物を観察し描写することを何と言うか、そう、シャセイですね。

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もうお分かりですね。第一話で描かれたシャセイの表現とは、この一連のシーンでの空太のシャセイへの伏線だったわけです。第一話を見た時には「またベタなことを……」と思っていたのですが、思わぬ回収に椅子から転げ落ちそうになりました。

というわけで、このアニメの危険性はじゅうぶん伝わったと思いますので、文字というかたちでのシャセイ行為、すなわちオナリチュールを終わりにしたいと思います。
※「オナリチュール」に関しては現在執筆者を募集中の『シンシアニメ』に詳しい。

以上。


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2012年秋期新作アニメレビュー 『トイレの神様はじめました』   2012.10.13


今期最もシンシ的な、シンシ然とした、シンシ感あふれる作品となるでしょうか。

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どのへんがシンシかというと、例えば第一話では、真昼間から遊郭(現代でいうところのフーゾク)に入り浸る巴衛の姿が描かれましたが

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むしろ、真昼間から遊郭(現代でいうところのフーゾク)に入り浸るような男でありながら、一回チューした程度の相手に絶対服従してしまうという態度にこそ、われわれの理想とする「シンシさ」があらわれています。

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主と定めた女性への服従/拘束は、シンシとして最大の喜びとなるでしょう。その主が、白札にカイた文字を実体化する能力の持ち主、すなわちオナリチュールに精通した女性であるのであれば尚更です。

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※「オナリチュール」に関しては『シンシアニメ』に詳しい。


第一話では、以上のように心構えとしてのシンシさ、すなわちシンシの精神性が描かれたわけですが、続く第二話では、その具体的な行動規範が描かれました。

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まずはじめに、寝床も食事も掃除も寝床もしっかりと準備すること、それがシンシの務めであります。主の生活すべてをサポートするフォーマルなシンシ。
(ちなみにこのシンシ、奈々生さまの外出に際して「額を隠す」ための頭巾の着用を求めましたが

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額を隠すだけならば某三つ目よろしく絆創膏であったり、某中二病よろしく包帯なんかでもよかったのですが、そこで「頭巾(=被り物)」が出てくるあたり、普段から「被り物」に接している/よく目にしていると思われ、したがってシンシのシンシ的な部分は被り物シンシであると考えられます。)

さて、そんなシンシでありますが、そのシンシさが最大に発揮された場面といえば、やはりこのワンシーンでしょうか。

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(天狗だけに)ナルシストな†地獄の堕天使†に酷い扱いを受けた奈々生さまは、他の多くの少女まんががそうであるように、女子便所に逃げ込みます。便所とはわれわれに与えられた最後のオアシスなのです。
そして、そんな女子便所に、平然と、一切の躊躇もなく、当たり前のように、きわめてナチュラルに侵入する巴衛シンシ。

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曰く「心配で見に来たのだ」
主を心配して(便器にハマってはいまいか、タンポンは上手く装着できているか、など)女子便所まで様子を見に来るのはシンシとして当然のおこないですし

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たとえその場で主が泣いていようとも、女子便所の中ではつい笑顔になってしまうのもまた、シンシとして避けられないことでしょう。
主君のためならば女子便所への侵入も厭わない行動力と、その女子便所という場所そのものに喜びを感じてしまうという心の葛藤、シンシがシンシたることの難しさが見事に表現されていました。

一方で、これはちょっと余談になりますが、もしかしたら奈々生さまが便所における最も有用な行為をおこなっている可能性を考慮して、あえて中には入らず「追跡」のみに留めた†地獄の堕天使†もまた、シンシ的であると言えます。

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この†地獄の堕天シ†は、生活苦である奈々生さまへの「援助」をおこなうシンシさも持ちあわせていますが

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このあたりの金銭を介したシンシさの表明は、真昼間から遊郭(現代でいうところのフーゾク)に入り浸る巴衛シンシとも通ずるものがあります。また、「援助」の理由として「パン(ツ)買う金がない」が挙げられていますが、「パン(ツ)を買ってあげる」のではなく「パン(ツ)を買う金をあげる」というあたりに、相手のプライドや尊厳を傷つけないためのシンシ的な配慮を見ることができるでしょう。


さて以上のように、第一話~二話では、シンシがシンシであるためのシンシ的な行動/心理がいくつか提示されてきたわけでありますが、巴衛シンシは元々はミカゲ♂のシンシであったという点は忘れるわけにいきません。
物語の開始以前、何十年前の話なのかはよく分かりませんが、ミカゲ♂と巴衛♂は何らかのかたちでシンシの契約を結んだわけですよね。そして、物語開始直後の段階では、巴衛♂は奈々生さまのシンシになることを拒否してもいました。
加えて、巴衛♂が真昼間から入り浸っていた遊郭(現代でいうところのフーゾク)の場面を思い出しましょう、そこにいたのは「金」の象徴であり、巨大な「キン」のイメージで有名な「タヌキ」でした。
これらのことから、巴衛♂は平たく言えばホモであったと断言できるわけですが、奈々生さまのシンシになることによってノンケとしての喜びに目覚め、真のシンシとして覚醒してゆく――物語がこの作品の本質なのだと伺えます。

先ほど挙げた女子便所でのシーン。あのシーンでは、表面的には「何の躊躇もなく女子便所に侵入する」ことのシンシさ、そして「女子便所という空間への喜び」が描かれておりましたが、その裏には「巴衛♂はミカゲ♂とのプレイの際には女役(=受け)であった」ゆえに「女子便所への侵入を厭わない」という隠し設定と、そんな彼が女子便所の喜びに目覚める瞬間、すなわち「ホモからノンケへの性転換」が意図されていたわけです。

以上のことから、この作品は、一介の女子高生によるシンシの育成と、ホモの矯正が同時に進行されるアニメになることが予想されます。キーワードは「服従/拘束/調教」です。
今後の展開がますます楽しみな作品となりました。

以上。


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